聖書のみことば
2022年5月
  5月1日 5月8日 5月15日 5月22日 5月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

5月15日主日礼拝音声

 人間を汚すもの
2022年5月第3主日礼拝 5月15日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第7章14〜23節

<14節>それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。<15節>外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」<16節><底本に節が欠けている個所の異本による訳文>聞く耳のある者は聞きなさい。†<17節>イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。<18節>イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。<19節>それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」<20節>更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。<21節>中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、<22節>姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、<23節>これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

 ただいまマルコによる福音書7章14節から23節までをご一緒にお聞きしました。
 7章1節から23節までは既に3月27日の礼拝でお聞きしているのですが、その際に触れられなかった9節から13節までを先週お聞きし、本日は14節から23節までをお聞きしています。
 14節に「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。『皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい』」とあります。主イエスは「聞いて悟りなさい」とおっしゃっています。これは、ただ耳によって聞くだけではなくて、そこで言わんとしていることを理解しなさいということだろうと思います。礼拝の中で説教が行われるのは、まさにこのことのためであると言ってもよいと思います。
 私たちが礼拝の中で触れる御言葉は、まずは聖書の言葉の朗読という形で語りかけられますが、聖書の言葉を聞いてすぐに分かるのであれば、あるいは説教は必要ないかもしれません。説教は「御言葉の説き明かし」という言われ方をします。「説き明かし」という大和言葉は、漢字の熟語で書き表すと「説明」です。説教は、聖書の言葉の説き明かしであり説明なのですが、いったい何のために説明が行われるのかというと、それは、私たちが聖書に語られている言葉を少しでもよく理解して、主イエスが伝えようとしてくださることを悟り、自分自身の中に受け止め、身になるためでしょう。主イエス御自身も「聞いて悟りなさい」とおっしゃって、私たちが少しでも主イエスを通して神が与えてくださる慈しみと愛を理解できるようになることを望んでおられるのです。

 けれども、この日主イエスが群衆に「聞いて悟るように」と呼びかけ、その後に教えられた言葉は、ある意味、謎めいた言葉でした。15節に「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」とあります。
 ある人たちは、この主イエスの言葉を「一種の謎かけのようなものだ」と考えて、例えば旧約聖書の士師記14章に出てくるサムソンが語った謎かけによく似ていると説明したりします。士師記14章14節で、サムソンは「食べる者から食べ物が出た。強いものから甘いものが出た。さあ当ててみろ」と謎かけをしました。これは答えを言えば、サムソンがライオンを退治した際に、そのライオンの死骸の中にミツバチが巣を作っていて、サムソンは「ライオンの体の中から蜂蜜が取れた」という経験をしたのでそのことを謎かけにしたのですが、15節の主イエスの言葉も、このサムソンの謎かけの言葉に近いと説明しています。

 けれども今日の箇所をよく読みますと、「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて」とあり、主イエスがわざわざ群衆を集めて教えようとしているのですから、これは宴会の余興のようなことではなくて、ここにはもっと真剣な意味が込められていると受け取った方が良いだろうと思います。主イエスはとても大事なことを、弟子たちと群衆たちに教えようとしておられるのです。
 それで主イエスは、大変真面目に「悟らせよう、理解してもらおう」と思って語っておられるのですが、しかし弟子たちには、この時主イエスがおっしゃった言葉がさっぱり理解できなかったようです。弟子たちにはまさしく、この言葉は謎の言葉に感じられました。それで弟子たちは、主イエスが群衆を解散させられ自分たちと一緒に家に入られた時に、この言葉の意味を主イエスに質問しました。17節に「イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた」とあります。弟子たちが「尋ねた」というのですから、おそらく主イエスは、群衆の前では、お語りになった言葉の意味を説き明かさなかったということだろうと思います。それで弟子たちは、謎めいたその言葉がどうしても気になって、後で主イエスにお尋ねしました。

 ここには、私たちが聖書の言葉に向かう時に大事にするべきことが教えられているように思います。私たちが聖書を自分で読んだり、あるいは朗読してもらって耳から言葉を受け取る時に、それをすぐに全て理解しながら受け取るとは限らないと思います。聖書の言葉を聞いても、何か分かりにくいと感じたり、反発を覚えたり、引っかかりを感じるようなことがあるのではないでしょうか。ところがそれを分かったことにして、そのまま家に帰ってしまうということが、私たちの場合にも案外多いと思うのです。
 主イエスがお語りになった謎めいた言葉を聞いて、群衆はその説き明かしを受けないまま家に帰っていきました。もしかすると、そういう群衆の中には、さほど主イエスの言葉に重きを置いていないという人たちもいたかもしれません。主イエスのなさる不思議な業や癒しの場面は見たいけれど、語られる言葉にはあまり興味がないという人もいたかもしれません。けれども、弟子たちは違いました。弟子たちは主イエスがおっしゃった言葉に違和感を覚えて引っかかったのです。それで主イエスに、おっしゃった言葉の意味をさらに深く教えていただきたいと願いました。

 そして、主イエスはその願いに答えてくださいました。主イエスの説き明かしは、二つの部分に分かれています。
 最初は、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もない」ということについてです。18節19節に「イエスは言われた。『あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる』」とあります。つまり、最後に「すべての食べ物」と言われていることからも分かりますが、「外から人の中に入るもの」として、主イエスは私たちが毎日行なっている飲食のことを考えておられるのです。食べたり飲んだりする物は私たちの心に入ってくるのではなく、体に、つまりお腹の中に入っていき、それはいつまでも留まっているわけではなく、やがて外に出て行く、トイレに出されることになると主イエスは言われました。なんとも下世話で開けっぴろげな言い方ではありますけれども、食べ物については確かにその通りだろうと思います。誰にでも、説明されればそうかと分かる答えが前半の答えです。
 それに続けて主イエスは、後半の言葉についても説明をしてくださいます。20節から23節に「更に、次のように言われた。『人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである』」とあります。悪い思いが人の心から出てくるのだと言われ、12の事柄を挙げておられます。聖書学者たちはこの12の悪事を、6つずつの二つのリストだと説明します。「みだらな行い」から「悪意」まで、前半の六つの言葉はいずれも複数形で書かれていて幾つも数えることができる残念な悪行を表しています。「詐欺」から「無分別」までの後半の六つは単数形で書かれていて、これらも数え切れないほど私たちが繰り返し犯しがちな愚かな行いを表していると説明します。そう説明されますと、例えば「詐欺」ということは、「数えきれないほどの詐欺など、自分は行うだろうか」と思ったりしますが、しかし「やがて大きくなれば詐欺にも発展しかねない、小さな偽りを表している」とすれば、「なるほど自分にも当てはまるかもしれない」と思ったりもします。
 主イエスは謎めいた言葉について、このように説き明かしてくださいました。これ以上のことは記されていませんし、聖書の字面を読む限り、確かにこう書いてあるだけです。

 けれども、これが本当に主イエスがおっしゃりたいことの種明かしなのでしょうか。主イエスはこの程度のことをおっしゃろうとして、15節の言葉を、わざわざ群衆を呼び集めておっしゃったのでしょうか。15節「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。つまり、食べ物は人間を汚すことはないが、その一方で、人の中からは様々な悪行や愚かさが生じるのだと、そのことをわざわざ謎かけをして語ろうとなさったのでしょうか。15節の言葉をもう一度心に留めてよくよく考えてみたいのです。

 今日は7章の14節からを聞いていますが、まず7章の初めで問題になっていた事柄は何だったでしょうか。発端はファリサイ派の人たちがやって来て、主イエスの弟子たちが手を洗わずに食事をしていることを咎めたことでした。つまり、「『手を洗わないで食事をする』、そのことで神との交わりは壊れてしまうのか」ということですが、そこから問題になっていたことは何かというと、「私たちが神からすっかり離れてしまうようになるところでは、一体何が神と私たち人間との交わりを邪魔立てするのか。何が神と私たち人間のつながりを断ち切ってしまうのか」ということでした。
 その事柄を頭の片隅において15節の言葉をもう一度読んでみると、どういうことになるでしょうか。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。「汚れ」という事柄が「神との交わりを損ない、つながりを断ち切る」ことだとすれば、この15節の言葉は、置き換えて「外から人間に入ってくるものは、たとえそれがどんなものであっても、神との交わりからその人を締め出すことはない。むしろ人間の中から出てくるものが神との交わりを損ない破壊して、神とのつながりを断ち切ってしまう」と読むことができます。そして、おそらくこのことが、主イエスが人々に教えようとなさったことです。このことを伝えようとして、主イエスはわざわざ群衆を呼び集めてお語りになったのです。

 神とのつながりが怪しくなっていく、それについては、外側からやってくる事柄というものもあるように思います。例えば、私たちが厳しい生活事情のもとに置かれ、そのために仕事の関係でどうしても日曜日の礼拝に行けなくなるとか、あるいは健康上の理由で、礼拝に行きたいと願いながらもどうしても行くことができないとか、あるいは自分の思いではないけれど、お世話してくれる人や周りの人たちの考えや都合によって礼拝に集うことが非常に難しくなる、そういうことが私たちにはあり得るだろうと思います。けれども主イエスは、そういう外側からのことで神と私たちの間柄、神と私たちの交わりが決定的に損なわれることはないのだとおっしゃるのです。
 確かに、妨げられる、障害が生じることはありますが、だからといって、それで神と私たちの交わりがすっぱり断ち切られるということはありません。神と私たちの間柄を成り立たせたり断ち切ったりするものは、外からの要因ではなく、これは紛れもなく私たちの内側にある何かです。まさに自分自身が神に対してどうであるか、そこに問題があるのです。
 私たちは、つい周りの事情や周囲の人々との行き違いを口実にして、あるいはまた、時には神御自身のせいにして、神と自分の間柄に緩みが生じるのは自分のせいではないと言い訳をしがちです。
 しかし主イエスは、本当のところはその人の中にあるもの、つまり私たち自身にこそ問題があるのだということを、ここで指摘なさるのです。

 「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」、こんなにも厳しく自分自身の責任を直視するように言われる時に、私たちはおそらく、この言葉に耐えることはできないと思います。 自分自身を振り返って、「わたしはいつも神さまにつながっていたいと願い、片時も神さまを忘れたことがない」などと言える人はどこにもいないからです。残念なことですが私たちは、「自分の中にあるものが出てくる」、そういうことがしばしば起こりがちです。そしてそのために神の事柄が二の次になってしまったり、本当は間違っていると思いながらも自分の欲求に負けてしまって、やるべきでないと思っていることを行なってしまったりする弱さを、誰もが持っているだろうと思います。
 そしてそのことをはっきりと指摘されると、それによって私たちは、自分自身にがっかりして深く嘆くということになるだろうと思います。まさしく後から後から、私たちには、神抜きで生きようとする自分自身というものが現れ出てくるようなところがあるのです。

 日頃私たちは、自分自身を振り返って、「神抜きで生きている時間が長い」と思ったりします。しかしそれは、神と離れた状態で静かに留まっているということではないように思います。神の側は、ことあるごとに御手を伸べてくださり、あるいは生活の端々で御言葉に触れるような機会を与えてくださって、私たちを御自身との交わりの中に招き返そうとしてくださいます。そしてそのことをなさるためには、最愛の独り子さえ惜しまないほどに、神は私たちに関わりを持とうとしてくださっているのです。
 ところが、神の側でそういう招きを与えてくださっていることに私たちは薄々勘づいているのですが、しかしそれでもなお、それに背を向け、神抜きで生きてしまおうとする、そういうところがあるのではないでしょうか。つまり私たちの人生には、後から後から「神さまに背を向けて生きようとする自分自身」というものが生まれてくるようなところがあるように思います。神が放っておられるから神を忘れているのではなくて、神が「覚えるように」とおっしゃってくださっても、私たちは平気で神抜きで生きようとしてしまう、ですから、私たちは弁解することはできないと思います。まさしく私たち自身の内側から、平気で神との交わりに背を向け、神とのつながりを断ち切る衝動が次々と突き上げ、噴き上げてくる、私たちは改めてそのことを考えると悲しまざるを得ないと思います。

 けれども、私たちが「そういう自分なのだ」と気づいて悲しむ時、その時こそ私たちはそこで、「まさにどうしようもない私たち自身の責めを完全に背負ってくださる真の贖い主が来られたのだ」ということを聞かされるのではないでしょうか。この方は、「皆わたしの言うことをよく聞いて悟りなさい」と言われます。「ただ聞き流すのではなくて、よく聞いて理解し、受け止めるようになりなさい。それがあなたの身の一部になるようになさい」と呼びかけてくださるのです。

 私たちは週ごとに、教会で何を聞かされるのでしょうか。「主イエスが私たちのために十字架にかかってくださった。そして甦って、私たちの死が既に精算されて、新しい命に生かされている」ことを聞かされるのです。私たちが聴き逃すのではなく、悟って、「それはわたしのことだ」と受け止めて生きるようになるために、主イエスが語ってくださるのです。私たちに繰り返し繰り返し語りかけ、「あなたは今、救いの中に生きる者とされている。あなたはそのことを悟って生きる者になりなさい」と呼びかけてくださる方がいらっしゃるのです。

 この主イエスが、山の上の説教で語られた言葉を思い起こして、終わりたいと思います。「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」。お祈りを捧げましょう。

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